きょう見つけた入試問題の問題文。。
「どうせ死んでしまうのだから、生きることは空しい、 という言い方は正しいだろうか」 「逆に、どうせ死んでしまうのだから、 今やりたいことをやろうというのは、どうだろう」
という問題提起から始まって、難しい言葉はほとんど使わずに、 平易な言葉で哲学的な内容が書かれている。 非日常的な漢語やカタカナ語攻めで読むものを悩ます難文の多い中 珍しいのだが、読んでいて、とても厳しい姿勢みたいなものを感じた。
以下、大体の要旨。。 最初の出発点だけは、なかなか難しい論理なのだけれど。。
**************************************** 「死ぬ」ということですべてが(努力も苦労も)無に帰する、 だから生きることは空しい、と言っているのだけど、 「死ぬ」ということはすべて無に帰すると言うのだったら、 死んだら無に帰してしまって空しいと嘆いている自分もまた、 無に帰して、「ない」はずだ。 「ない」自分は「ない」のだから、 生きている自分とは関係がないということになる。
そもそも、「死ぬ」ということはすべてが無に帰することなのか? 無は「ない」のだから、死は「ない」、 だから死を前提にして生きることはできない。
時間は誰もが思っているような、前へ流れるものではない。 死は「ない」のだから、生の時間は 終点としての死へ向かって前方へ直線的に流れるものではない。 時間というものは、本来、過去から未来へ流れるものではなく、 ただ「今」があるだけなんだ。 **************************************
このあたりで、この人は反ハイデガーか? とか、 刹那主義的な生き方を求めているのかと思ってみたりもするのだが、、 さらに読み進めてみる。
*************************************** 「今」があるだけ、「今」しかないのだから、 今やりたいことをやろうというのは正しい。 でも、それは、どうせ死んでしまうからじゃない。 人は確かに死ぬけれども、死は「ない」のだから、嘆かず憂えず、 今やりたいことをやる、やることができる、、すばらしいことだ。
現代は神の存在を素朴に信じられない時代で、 神のない人生の意味や理由を求めて、人々は悩んでいる。 しかし、そもそも、なぜ人は人生に意味や理由を求めるのか?
例えば、現代科学はビッグバンによって宇宙は始まったと説明する。 しかし、化学は、ビッグバンが起こった理由を理解できない。 それなのになざビッグバンが起こり宇宙が存在しているのか?
しかし、人は、宇宙の生滅に、意味や理由をほとんど思わない。 宇宙が、ただそのようにあるのだとしたら。 人生も、ただそのようにあるだけではないのか。 人生には、意味も理由もなく、ただそのようにある、、、 これで困ることはない。
神が創ったのではない(として)のに宇宙が存在するということは、 とんでもないこと、ものすごいこと、、、奇跡なんだ。 存在すること自体が、驚くべき奇跡なんだ。 存在することに意味も理由もなく、それでも存在することが奇跡なんだ。
自分が存在し、人生が存在する、、これも奇跡だ。 そして、そこで味わう苦しみだって、やはり奇跡だ。 なぜあるかわからないものが、なぜかそこにあるのだから。。
「この不思議の感覚、奇跡だという感情は、おそらく、 敬虔な信仰をもつ人が神さまに捧げる祈りに似ている。 自分を超えた存在や力に、自分の心において出会うんだ。 人は、驚きと同時に、深い畏れを知る。 そして、この苦しみは神から与えられたものだと、 ごく自然に思えるようになるのだろう。 このような信仰こそ美しいものだ。 それは、考える精神が、 考えに考えた果てに至り着く感覚と同じものだ」
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つまり、存在する奇跡に畏れと感謝の念を抱き、今を生きる。。。 苦しみにさえ感謝して、今を精一杯生きる。。。
私にとって、新たな思想というわけではないけれど、 平易な日常語に終始しながら、難しい問題に応えているところに、 ひたすら共感した。
出典を見て、あーー、、と思った。 池田晶子の「14歳からの哲学」。 ずっと以前に噂では聞いていたが、忙しくて読んだことがなかった。 「専門知識や用語に頼ることなく、日常の言葉によって 『哲学するとはどういうことか』を語る」 という評判を聞いたことがあったのだった。
Wiki に行ってみたら、最後近くにこう書かれていた。 「2007年2月23日、腎臓ガンのため46歳の若さで逝去」
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