2009年03月31日(火) |
この地の葬儀の基本形? |
葬儀は正午に開会、午後1時に閉会。
弔問客として参加する場合はそれだけなのだが、 当然、きょう(昨日)はその前後のすべてに参加したわけなので、 これは、かなり久々の体験だった。
10時に集合して、10時半ごろに食事した。 「おとき」と呼んでいたが、要するに、町内で葬儀をしていたころ、 「今のうちに食べておきましょう」と早めに昼食した名残だろうか? 「お斎」という語を調べると、ちょっと違う意味が書かれているが。。
葬儀が終わって棺を霊柩車に乗せると、 我々はすぐそのままマイクロバスに乗せられた。 知人の参列者に挨拶する余裕もない。
父母の家から葬儀場までの道の半分以上を戻って斎場へ。。 こんなところにあったんかね、、? 表から見ると、コンサートホールかと思うような美しい建物。。
最初の部屋に入ると、もう導師が先に来ていて読経が始まった。 ここで、葬儀場でいったん済ませたはずの最後の別れを再び。。 それから第2の部屋に移り、次のドアの中には、 いかにも今まで何人もの遺体を焼いてきたぞ、というような台があって 棺はその台の上に載せられ、、、そうしてドアが閉められる。。
それは、故人が急死だった場合などはとりわけつらい演出に思われた。
それから、また葬儀場の方に戻って、しばらく待機。 私はロビーで母の一番下と二番目の弟である叔父たちと談笑していた。 子どものころ、かわいがってくれた叔父たちである。
3時過ぎたころに骨拾いに再び市の斎場に戻った。 焼き場の人が、ここはどこの骨、これはどこの骨、と、 詳しく説明してくれるのだが、 私はとにかく、あの父の体がこんな姿になってしまうことにびっくり。 何年ぶりかなぁ、、骨拾いにまで参加するのって、、?
私が今までにこの骨拾いのところまで参加したのは、 母方の祖父の葬儀(一宮にて)と、 大学卒業の3年後に、家庭教師で教えていた子の葬儀(東京にて)の 2度だけである、、、それだけしか覚えがない。 (父方の祖父母の時は田舎で、土葬だったはずだし、、)
そのどちらの時も、かなりたくさんの人が残っていて、 遺体を焼いてる間に飲食していたような気がする。 特に家庭教師の生徒の時は、親族でもない自分がそこに参加してるのが 不思議な気がしたものだった。
焼き場の人がひととおり焼け残った骨の説明をした後、 三方状の台に入念に選んで二十数片の骨を取って並べた。 それを2人1組で1片ずつ骨壺に納めるのはどこも同じだろうが、 骨を入れる順番というものをちゃんと守っているらしい。 最後の数片は私と兄で入れたが、最後の頭蓋骨のかけらで 「蓋をするように入れて下さい」と言われたから、 あぁ、足の方から順々に入れて最後は頭なんだな、とわかった。
それからまたマイクロバスで葬儀会館に戻り、 そのまま葬儀をやったホールに導かれて、初七日の法要。
読経が始まるとすぐに焼香を始めた。 でも、何か、今回は気が抜けた焼香のような印象が拭えない。。
その時にやっと理解できたのだが、 要するに、1週間後にまた親族を集めるのはたいへんなので、 まだ親族が残ってるこの機会にやっておこうということなのだろう。
それから食堂に入り、初七日の食事をして、4時半ごろ終了。 ここまで参加していたのは、兄と私の家族と母・妹で10人の他、 親戚が10人。 後で、葬儀屋の担当者と雑談していたら、 20人も最後まで残っていただけるのは、最近珍しいですよ、 と言っていた。
彼に言わせると、各務原のあたりでは、 朝の「おとき」の方がにぎやかだそうである。 東に行けば行くほど、当然のようにして親族が集まってくるそうだ。
我が家の親戚は、一宮から名古屋にかけて住む人たちと、 岐阜県の東の方にある可児郡御嵩町のあたりに住む人たちだが、 そういう習慣がまったく残ってないらしいので、 われわれ家族10人だけだった。 あと、受付の係に来てくれた人たちと僧侶のために用意した。
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