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モンテベルディの顔
モンテベルディという作曲家、バッハより百年ちょい前に生まれた人で、オペラ史には必ず出る人ではあるのだけれど、肖像画の顔はとても暗くて険しい。仲良くなりたくないタイプである。あの顔で曲を聞く意欲を失う。そしてずっと聞かないまま過ごしてきた。
でも、『西洋音楽史』を読んでから、これは一度は聞かねばならん、と思い、四声のミサ曲を聞いてみたら、なんとまあ美しいことよ、と驚いた。真面目に美しい。お遊び加減がなく、ただただ清らか。神様だけがいて、人間は本当に神の意のままなのねって・・・(バッハは神の前の人間の音楽だと思ってます)。
あんな顔したモンテベルディのどこから、こんな歌が生まれてくるのかしらと思うと同時に、肖像の罪を思わないではいられない。
話がぶっ飛ぶが、物理学者朝永振一郎とその父親の哲学者(だったっけ)三十郎がある人名辞典の同じページに出ていた。三十郎氏のほうはかなり若いときの写真で、対する息子はかなり晩年の写真だった。とても奇妙な気がしたことを覚えている。
当たり前のことだけれど、人は何十年も生きるのに、写真はほんの一瞬である。現代人なら生涯たくさんの写真を残すが、昔の人は特別な機会に撮るだけだから、数が少ない。もっと昔の肖像画の時代ならさらに少ない。
それなのに、特定の一枚がさもその人そのものであるかのように使われる。夏目漱石、森鴎外、正岡子規、石川啄木、みんな国語の教科書で顔を知り、ずっとその顔だけで覚えてしまう。バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト・・・このあたりは音楽室。このほか、シェークスピアだとか、ベーコンだとかもおなじみの顔だろう。
まあ、顔もしらないで、作品を知ってもつまらない、ということになるのかもしれないが、顔で先入観を持って作品に触れない、ということも、モンテベルディの例がそうであったように私の場合はよくあることだ。
たまたまの顔が後世ずうっとその人だとして、大衆に記憶されるわけだが、それもちょっとなんだかなあ、と思ってしまう。CGで年齢をあげたり、さげたり、表情を変えたり、髪型や衣装を今風にしてみてくれたりすれば、ずいぶんとイメージが変わるだろう。それに案外、いろんな新しい物の見方につながったりしないだろうか???
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