「世間様に申し訳ない」と言う中の「世間」とは誰なのか。
特定の誰かでなく、あるいは自分が知る限りの特定少数の範囲を 「世間」と言うならば、それは世の大多数を意味するのではなく、 少数の考えを自分なりに取り入れているだけ。
他人に対して、「世間様が許さないから」という理由で何かを制約 するならば、それは「オレ」が許さない、ということと同義。 自分はそう思います。
日本においては、絶対的な存在であるキリストのような存在が皆無と 言っていいでしょう。個々人の中には絶対的な存在はあるでしょうが、 国民的レベルでの絶対的存在はないという意味です。
「神」対「個人」といった対比が日本にはありません。 あるとすれば、「親」対「自分」とか「棟梁」対「自分」とか。 普遍的と思われるものもありませんから、何を拠り所とするかというと、 自分の周囲を便宜的に利用して、それを標準としてしまう。そこから 外れるものは異常だとかおかしいとか言う。
基準となるものが曖昧だから、その比較判断も曖昧となるのは当然。 おかしいと言われても、そのベースがいい加減だから、おかしいと言う 本人もおかしいのではないかと思ってしまいます。
こんなことを言い出すと、オマエは屁理屈が多い、となりますが、 屁理屈以前に、周りを引き合いに出すのはやめて欲しい。どうせ言うなら 自分がこう考えるからオマエはどうなんだ、と言って欲しい。
テレビ東京のWBSでオリックスの宮内会長は、 「世間に惑わされない確固たる自己を作ることが経営者に求められている」 という発言のベースがキリスト教の教えにあるということですから、 関西学院大学でキリスト教に出会わなければ、彼は今のような立場で 存在しなかったかもしれません。オリックスというリース会社もなければ、 オリックスというプロ野球球団もなかったかもしれません。
経済成長期にリース会社という当時は馴染みのない形態の会社を立ち上げた 彼の確固たる信念が今の彼の立場を作っていると思われます。
というか、戦後の厳しい時代に会社を立ち上げたり、経済成長時代に周囲と 同じ手法を追いかけなかった会社で今も存続している会社には、 少なからず、そのような気骨のある人が設立に携わっているようです。
今となっては「頑固オヤジ」と言われそうですが、経営哲学を持つべき人が 優柔不断じゃ困りますからねぇ。でも、柔軟な頭のある頑固オヤジならば いいのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
はい。今日は曇り。(東京地方)
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