カウントシープ
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2006年01月28日(土) |
作られた思い出だとしても |
随分ネガティブな話ばかりが続いていてどうしてことか、って感じだけれど、こうした精神とは別に、日常はきちんと生活している。きちんと、っていうか、何を持ってきちんとしているというのかよく解らないけれど、社会的に自分に求められていることをこなしているという感じかな。
そう思うと社会的な物事のせいでおちおちゆっくりしていられないのと同時に、社会的な物事が引っ張りだしてくれるともいえるだろう。以前1ヵ月肺炎で仕事を休んだときには、凄く気持ちが沈んだのだけれど、やっぱり何か成すべきことがあるほうが、精神衛生上良いようだ。
できればみんなが、生きている実感、何か手ごたえとなるものを感じていられたなら、それは幸いなことだろう。家にこもっている人たちは、何かを感じる土台が、後ろ盾が感じられないのだろう。振り返ったときに思い出してよかったと思えるような良いものが沢山迎えてくれるなら、勇気を持って踏み出せるだろう。
たとえ思い出がすべては真実でなかったとしても、そこに欠片の真実が埋もれているし、思い出とはそうしたいろいろな付加によって作られていくものだから、思い出を良い物に作り変える力は、生きていく力にもなりうるだろう。
ロビン
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