鼻くそ駄文日記
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2001年08月10日(金) |
『この人を見よ』(ニーチェ 新潮文庫) |
ニーチェをはじめて読んだのは十八歳の時だった。しかも、読んだのは『ツァラトストラかく語りき』(新潮文庫)ではない。『この人を見よ』(新潮文庫)を読んでしまった。 本屋で立ち読みをするために手に取り、目次を見た瞬間、ぼくはまいってしまったのだ。 「なぜ私はかくも賢明なのか」 「なぜ私はかくも怜悧なのか」 「なぜ私はかくも良い本を書くのか」 この三つのタイトルにやられた。ここまで自分を肯定し、自信に満ちあふれている言葉をぼくは知らなかった。 これは買わなくては、と思い、その場で購入し、家に帰って読んだ。 はっきり言って読んでみて、それほどおもしろいとは思わなかった。なんだか、年寄りの大学教授の杵柄を延々と聞かされている気分になった。 当時のぼくにニーチェが楽しめなかったいちばんの理由は、ぼくが「人間とは本来弱い者だ」と、なんの根拠もなく純粋に思いこんでいたからだろう。 ルサンチマン(内向的復讐感情、つまり社会的弱者が「弱者こそ善人」だと思う幻想)を余計な感情と呼ぶニーチェの思想にはなじめなかった。 いま、ぼくは二十代である。純粋さを失い、そのぶん怜悧さを少しだけ身につけたぼくは久しぶりに『この人を見よ』を読んでみた。内容に関しては、まあそういう考え方もあるなあという程度にしか受け取れなかった(ぼくは戦後日本の同和教育を受けているから、なかなか弱い人を切り捨てられません)けれど、すごい衝撃を受けた。 表現が過激なのである。特に後半部分は強烈だ。軽く引用してみよう。
「神とは我々デンカー(思索人)にとっては一つの大づかみな答えであり、何とも不味い料理なのである」 「私は人間ではないのである。私はダイナマイトだ」 「善人の概念に置いてはすべての弱者、病者、出来損い、自分自身に悩んでいる者、すなわち滅んでしかるべきいっさいの者の擁護者として立つことが証明されており――誇りを抱く出来の良い人間、肯定する人間、未来を革新し未来を保証する人間に対する否定的抗議が、一つの理想として祭り上げられている始末である」
ぼくはタイトルにショックを受けて『この人を見よ』を買ったのだった。思想に関心があったわけではなく、「なぜ私はかくも賢明なのか」のアフォリズムに惹かれたのだ。 そうやって読むと、『この人を見よ』はなんとも最高である。 それもそのはず、『この人を見よ』を執筆した直後にニーチェは発狂している。麻薬に汚染されたミュージシャンが作るサイケデリックなサウンドが心を躍らせるのと同じで、本当に狂っている人の文章は平凡なぼくの心を掴んで離さないようだ。
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