日々是迷々之記
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2005年03月20日(日) |
生き抜くことのせつなさを |
金曜日の朝5時過ぎに携帯電話が鳴った。嫌な予感とともに電話に出ると、案の定母親が入院している病院からだった。自発呼吸が止まって、鼻から肺へ管を通して酸素を送り込んでいる状態なので、親族の方に集まって頂きたい、とのことだった。
まだ亡くなったわけではないが、ぼちぼちですよ、みたいな意味なんだろう。私は、奈良に住む母親の妹さんと、茨城県に暮らす私の妹に連絡した。それから着替えてカブで病院に駆けつける。
まだ夜が明けきらない街は空いていて、真冬の寒さだった。病院に着くと、母親は全身がむくみ、血圧は80以下(高血圧なのでいつもは190とかである)、酸素を送り込む機械の拍子に合わせて胸が盛り上がり、へこむ。
酸素を送り込む機械に命を握られている。今、停電になったり、地震が来たり、この機械が不意に故障したら間違いなくこの人は死ぬだろう。それでも生きていることになるのだから、不思議だ。
最後の瞬間を見守るために私は呼ばれたんだろうと、傍らに腰掛け見守る。時折機械から警告音が鳴る。自発呼吸をして、それとタイミングが合わないと鳴るようだった。30分に一度くらいは呼吸しようとしているようだった。
8時ごろ主治医の先生が来た。容態を聞くと、先週末から肺炎にかかっており、今はかなりこじらせている状態だそうである。ついでに、腎臓の機能が低下してきているので、肺に水がたまっているらしい。余談を許さない状態で、今から集中治療室に移すつもりだとのことだった。
9時過ぎに奈良から妹さんが駆けつけてくれた。昨日も見舞いに来てくれていたようで、昨日は、声を出したりしていたのに…と言っていた。私は入れ替わりで会社に行くことにした。同僚が引っ越しをするので有給休暇を取っていて、とても休める日ではなかったのだ。人非人だろうか?
会社に行き、遅れた事情を話すと、帰ってもいいと言われたが、仕事は机にこんもりと盛ってある。とりあえず午後休を頂いて、無言で仕事を片づける。午前中、一度も席を立たなかった。
茨城の妹から連絡があり、今日のお昼頃大阪に来るという。お金もかかるし悪いなぁと正直思うが、母親も長くないだろうから、やっぱ来てもらった方がいいだろう。夕方病院で落ち合うことにした。
おばちゃんはまだ病院にいるということなので、一度家に帰って、食事をしてから病院に行った。朝の5時から何も口にしてなかったので、食べると胃がきしみそうだった。
昼過ぎに妹がやってきて、母親に話しかけた。が、反応はあるんだかないんだか、って感じであった。まもなくして集中治療室に運ばれてゆき、私たちは物を持って帰った。
実家をひきはらうこと、葬式のこと、お骨をどうするかということ、そういうことは全部私が考えなくてはいけないようだった。頭がぼーっとしてしまう。
土曜日の夕方、妹を見送りに駅まで行った。すると携帯電話が鳴った。見ると公衆電話からだった。誰だろうと思ったら、母親の友人からだった。何で私に連絡をくれないの!と怒っている。古い友人の人で、母親は外面がいいので仲良くしていたようだ。いつものように見舞いに行ったら、集中治療室に入っていて、親族以外は面会禁止だと言われ、びっくりした。何かあったらちゃんと連絡してね!とのことだった。
じたばたしていたので連絡できませんでした、もうしわけありません。と謝り、電話を切る。はぁ、と一つため息が出た。そんなに知りたかったら知りたい人を募集して、連絡網か、メルマガでも発信しようかなと思う。こういうことも私がしないといけないようだ。
まぁ、なんかどうでもいいんだけど…。と思う。妹とその彼氏がくれた、誕生日プレゼントのiPodシャッフルだけが、嬉しい出来事だった。
また2,3日したら携帯電話で呼びつけられるんだろうか。
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