日々是迷々之記
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2005年04月08日(金) 母親というやつは

毎日3時になると、帰っていいですよ、と声をかけられる。私は仕事が中途半端でも帰る。それが好意的なのか、それとも戦力外通告なのかは微妙である。多分後者かな、と神経症気味の私は思ってしまう。

まず接骨院へ行く。2月に妙高のスキーで痛めた肩の筋が痛む。思ったより深刻なようで触ったら、エンピツくらいのごりごりとした感触がある。今日はうつぶせ寝による寝違いもあって、体ごとふりむくような情けないさまであった。

それから実家へ。今日のターゲットはタンスと押し入れである。片っ端からゴミ袋に放りこめばいいや!と思っていたが、現実はそうも行かなかった。ああ、これは一緒にカナダ旅行へ行ったときに買ったトレーナーやなぁ、とか、このカーディガンもう10年くらい着てるちゃうかと思うと、なかなかゴミ袋に突っ込めない。

あと手編みのニット類。母親は編み物の先生をしていたことがある。その手の雑誌に名前入りで作品が載ったこともあるし、私も学生時代、ニットといえば親の編んだものと決まっていた。彼女自身、ニットは自分で編んだ物をいつも身につけていた。私が3歳くらい。雪の残る小さな裏庭で母親が洗濯物を干しながら、私と遊んでいる写真があるのだが、そのときに着ているセーターもあった。

さすがにそれをゴミ袋に突っ込むことはできなかった。私にも少しは情けがあったみたいだ。とりあえずヘタレ切った下着類、パンスト、ぼろぼろのタオルなどをゴミとして袋に入れた。ニット類はとりあえず別に分けておいた。

私が明日死んだらどうなるのだろうと一瞬思った。マックとか、自転車、テント、寝袋、マンガ、小説、そしてこの日記などネットの中の私の世界。それらは主人を失い、ぼろ下着のようにゴミになってしまうのだろうか。悲しいけれど、そうなるだろう。きっとそれが死んでしまうということだ。

タンスの引き出しからなつかしい物が出てきた。私が幼稚園児くらいのときに、九州の田舎で着ていたキャミソールとワンピースのあいのこみたいな服である。それを着て、下に半ズボンをはいていた記憶がある。それらは母親の手作りで、胸のギャザーの所は手縫いであった。薄い水色に、車輪がピンクと黄色の白い車が並んだその柄がとても気に入っていた。25年経った今見てもやっぱり可愛らしい。これも捨てることができない。

こんなものを狭い2DKに住んでるくせにわざわざとっておく、母親の気持ちがわからない。嘘つきで隠し事も多く、小金にせこい自己中心的な母親のくせに。

わたしにはあの人がどういう人なのか未だに理解できずにいる。わたしが母親になればわかるのだろうか。


nao-zo |MAIL

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