「硝子の月」
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「『赤き運命』と『挑む者』が出会うたぞ」 女が、やすりで研いだ爪にふっと息を吹きかけた。 何処か大きな建物の一隅である。四方の壁は扉や窓以外全てが本棚で、無数の本が一分の隙もなく並べられている。その天井の高さは通常の軽く三倍はあり、上の方は暗くてどんな本が並べられているのか全く見当もつかない。 女は長椅子に寝そべると、目の前にいる二人の男に目を見た。 一人は、豪奢な衣服を纏った中年の男。些か不満げな表情で、彼女の前に置かれたお義理程度の椅子に、でっぷりと太った身体を持て余し気味に沈めている。 もう一人は、背の高い痩身の男。派手ではないが、仕立ての良さそうな長衣に身を包み、彼女の前にひかえている。この男の持つ、漆黒の長髪と真冬の湖のような冷たく青い瞳が、女のお気に入りであった。 「…そなたの陛下は妾に信用が置けぬようじゃの」 揶揄の響きもあらわに、女は言った。長身の男は、素知らぬ振りで弁明する。 「決してそのような事は。我が陛下におかれましては、近頃お身体の調子がすぐれず…」 「女は天井だけを見ておればよいという顔じゃの」 男の言葉を聞かず、女はくすくすと笑い声を漏らした。 「『永き者の寵を受ける御方』…」 男が困った表情で呟く。すると、女は笑いを止めないまでもひらひらと手のひらを振って見せた。全身を覆う緑の薄絹が、さらさらと音を奏でる。 「よいよい、妾は気分を害してはおらぬ、宰相殿。元々、そなたの為に『赤き運命』について教えているようなものじゃ。己の欲を満たす事しか考えておらぬ愚か者の為ではないわ」 黄金の双眸が自分に向いていることに気付き、中年の男が怒りに顔を赤らめる。 「…この私を侮辱するつもりか」 「おや、解らなかったかえ?」 女はふうわりと破顔する。 「そなたの様な知恵浅き者にも解る様に言うたつもりであったが。妾も精進が足りぬのう」 「貴様…」 「陛下」 立ち上がり女へと詰め寄ろうとした中年を、長身の男が制止する。 「『御方(様』もお戯れはどうかお止め下さい」 非難めいた視線を向けられて、女はふんと顔を逸らせると、水煙草の長い管に手を延ばし、長い煙管を口に咥えた。窓から差し込む光を浴びて、黄金の巻毛が、持ち主の気分に合わせてはらはらと無数の光を撒き散らす。ふと窓の外に目をやると、枝に一羽の大きな黒い鳥が留まっているのが見えた。 烏だろうか。それにしては風格がある。
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