2001年11月25日(日) |
2年後のドラフトを目指し |
「高校のチームメイトがプロに入って、悔しい気持ちはあるでしょう?」と訊くと、「う〜ん・・・。悔しさも羨ましさもありますけど・・・。でも、一緒にやっていた仲間ですから。頑張って欲しいですよ」と川岸は答えた。
今年の明治神宮野球大会大学の部で優勝を飾ったのは、東都大学連盟代表の駒沢大学だった。チームを引っ張ったのは、秋のリーグ戦で最優秀投手賞を受賞した4年生の川岸強。初戦から決勝まで3試合全てに先発し、いずれの試合でも大崩れすることなく、見事に監督の期待に応えた。
川岸は神奈川の名門・桐蔭学園の出身である。桐蔭時代は、3年夏に神奈川大会を制覇するが、甲子園では2回戦で西京(山口)に延長戦の末敗れ、涙を飲んだ。
私は川岸の投球フォームが好きだった。右サイドハンドから、キレのあるストレートを投げ込む。投げ終わったあと、マウンド上で跳ねあがる。その躍動感に目を奪われた。
小学校から野球を始めた私は、ずっとピッチャーをやってきた。初めは上手投げだったが、中学2年のときから、少しサイド気味に投げるようになった。「身体の使い方がサイドに向いている」と野球部の先生に言われたからだ。 当時、お手本にしたのが、巨人で全盛を誇っていた斎藤雅樹だった。彼もまた、マウンド上で跳ねた。躍動感の塊のようだった。私は憧れた。 桐蔭時代に見た川岸の姿は、憧れていた斎藤にダブった。今でもよく覚えている。
当時の彼は、センターと投手を兼用していた。エースナンバーを背負っていたのは、法政大に進学した浅井良。だから、いつもいつも川岸が投げているわけではなかった。大学で、外野手の道へ進むのか、それとも投手か・・・。川岸は駒沢大に進学すると、投手の道を歩み出した。
神宮大会で川岸の投げる姿を3試合とも見た。桐蔭学園の頃よりも、躍動感が増していた。4年前の川岸を思い出し、なぜか妙に嬉しくなってしまった。
ドラフト候補に挙げられていた川岸だが、今後は社会人に進むという。桐蔭時代にエースだった浅井は、法政に進学後捕手に転向。その実力を認められ、阪神の自由獲得枠でプロへと進んだ。また、ショートを守っていた平野恵一は、東海大に進学後「守備の天才」と謳われ、彼の守備を見るために、球場に足を運ぶ観客ができるほどの選手に成長した。平野もまた、自由獲得枠でオリックスから指名を受けた。いずれも、川岸とともに高校3年間を過ごした仲間である。
川岸は「頑張って欲しい」と浅井と平野にエールを送った。今でも、携帯電話で連絡を取り合っているという。 同期がプロに進んだことに関して、その口ぶりからは「悔しさはない」ようだった。でも、川岸は最後に自分の決意はしっかりと示した。 「2年後、自分もドラフトで指名されるような選手になって、絶対にふたりと同じ舞台に立ちますよ。負けてられないですよ」
躍動感溢れる川岸のピッチング。 プロの舞台で目にする日を、今から楽しみにしたい。
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