2002年02月08日(金) |
お母さん。やっぱりお父さんは大きいね。僕、食べきれないよ。 |
批判するだけで何かを成したように悦に入る人がいて、 さいとういんこさんに言わせるとそういうのは 「敵を間違えてる人」となるんだけど、 でもやっぱり世の中にはそういう人もいる。 つーか、俺もときどきやっちゃうので反省。
人づてに聞いた話だけど、 昨年何月かのベンズカフェのスラムで、 出演者に一様に野次を飛ばす人たちがいたらしい。 そういうことして何が楽しいんだろう? 何を得られるんだろう? 何のためになるんだろう?
批判、あるいは否定は、 建設的意見を述べる前段階としてあるべきだと思う。 それがなければ批判なんかするもんじゃない。 正しければ何をしてもいいってもんじゃないのは世の中の常識だ。
敢えて名前を公表しないけど、 現代詩手帳2月号の対談の批判をネット上でしている人がいて、 まぁ自分のサイトでやってるので何言ってもかまわないだろうし、 (イヤなら俺が行かなければいいだけなので) 批判の中身自体は説得力があって、なるほどとうなずく面もあるけれど、 「この人は批判を行って、何がしたいんだろう?」 そういう場所でどうしても引っ掛かってしまう。 批判の内容は正しくても、全然建設的じゃない。 そこから前に進まない。進もうとしていない。
数日前にとある人から、 以前この人が荒らしたせいで、 清水哲男さんのサイトから掲示板が消えたことを聞いてしまった。 もちろん今回の件とつなげて考えるのは浅はかだけど、 いろんな意味で、なんかモヤモヤする。 その人に対してだけではなく、自分も含めた、いろんなものすべてに対して。
エンピツの日記を見て回っていても、 上から見下ろすように状況を批判して満足してるような、 そういう日記が時々あって、 なんでそんなことを書くのか全然わからないことがある。 読んでる人を不快にさせることが、 そんなに楽しいことなんだろうか。 俺が勝手に不快になってるだけなんだろうか。 自意識過剰の「私を見て見て」タイプの日記も嫌いなんだけど、 そういう日記も嫌いだ。 調子に乗り過ぎて同様のことをしてしまうことが時々あるので、 自戒込みでイヤになってしまう。
たとえば今、この文章は、読んでる人を不快にさせてないだろうか。 批判するためだけの批判で終わってないだろうか。 自分を棚に上げた文章になってないだろうか。
一抹の矛盾を感じながら書いてしまっている。
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