2002年03月10日(日) |
やっぱポエフリの感想を期待されているんだろうなぁ(笑)。 |
というわけで。 というか、浮遊賛歌の印象になるけど。
「漫才」と「コント」の違いに思い馳せるわけですよ。
浮遊賛歌を観て、そう思った。 あれでね、詩学3月号の座談会で、 関田さんが言いたかったことが、はっきりわかった(ような気がする)。
「落語」→「漫才」→「コント」と、 発生学的には続くわけよ。 かなり乱暴に言っちゃうと、 “読む”詩は、落語なのね。で、リーディングが、漫才。 そして、漫才とコントの違いは、劇的演出の有無にあります。 劇的演出って言っても、 別に物語性の有無とか、そういうんじゃなくて。 舞台のうえでのパフォーマンスとしての、 劇的方法論。そんな感じ。
浮遊賛歌には劇的演出の匂いがありました。 言葉の選び方、使い方なんか、 鴻上の初期の舞台を彷彿とさせる。 「朝日のような夕日をつれて」のラストとか、 じつはけっこう似てる。 あるいは一昔前の小劇場ブームで興った 有象無象の劇団にも、似たような“舞台”はいくつかあった。
で、似てるから云々ってそんな安直な話ではなく。
詩(ポエトリー)の側からそういう方向を向くというのは、 確かに「新しい」ことだなと。 方法論はまるきり違ってるけど、 方向性としてはRADIO DAYSに似てるかもしれない。 彼らが、自分たちのしていることが「詩」なのかどうか、 そこに疑いを持ち始め、 「言葉のパフォーマンス」と定義し直したこととか、 そういう、似たような匂いがする。
だからね。見方を変えないと、 間違った評価を下してしまうと思います。 頭の固いヤツは「何あれ?」って思っちゃうんじゃないのか? 落語や漫才のつもりで観ると違和感を感じるんじゃないのか? ま、感想を聞いてる限りではそんなのは杞憂みたいだけどね。 杞憂になってるってことで、すごく、 詩の未来を感じるんだけどね(笑)。
だから、浮遊賛歌は、 良い意味でポエトリー・リーディングじゃないって、俺は思いました。
おしまい。
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