山ちゃんの仕方がねえさ闘病記 日記一覧|前の日へ|次の日へ
さっきアマゾンから「孫子」と「大学・中庸」が届いた。 司馬遷の「史記」は本紀12巻、表10巻、書8巻、世家30巻、列伝70巻、合わせて130巻から成っているという。本書はそれらの翻訳でもなければ単なる注釈本でもない。タイトルが言うように著者が「史記」を語っている。 著者の宮崎市定先生は既に鬼籍に入っておられるが、もし仮にご存命であるならば、ぜひ講義を受けてみたいと思うファンは少なからずいるだろうと思う。どの著作をとってみても単なる歴史書ではなく、説得力があり読者を惹き付ける魅力があり飽きさせない。 本書で先生が最も語っている部分は第5章「年表」のところであると思う。サブタイトルに「どこまで歴史は遡れるか」とし、ここで先生は「禹貢」を批判して、司馬遷の時代観を問題視している。司馬遷は「禹」を中国史における有力な出発点とみなしているが、宮崎先生は秦漢時代に創作されたのではないかと疑問を呈している。 また、著者が司馬遷に感謝の意を示すページがある。それは、よくぞこれだけの史料をまとめて保存してくれたという歴史学の功績に対してである。「史記」がなければどれほど多くの史実が散逸してしまったかわからないという。 意外ではあるが、明らかに後人が加筆した跡があり、「史記」の各所に何の断りもなく改竄の加えられたことがあるについては、疑うべからざる証拠があるという。宮崎先生のこの行間を読み取る能力は、本家の中国の歴史学者も凌いでいるのではあるまいか。 巻末に「史記の中の女性」と題して数ページを割いているが、当時の女性のあり様が少しだけわかり興味をひいた。則天武后や西太后だけでなく、無数の宮廷内外の女性についての研究が発表されることを期待したい。
ここ数日体調不良が続き、日記更新や読書ができなかった。 あまりにも有名な「論語」を古典の時間にちょこっとかじったぐらいで、今まで手をつけなかったため、超有名なフレーズである、 ・「温故知新」 ・「巧言令色少なし仁」 ・「朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや」 ぐらいしか知らない。ちょうどBSで「恕の人-孔子伝」が放送されていることもあって、今回このダイジェスト版ともいうべき本書を手にした。 ここで一つ認識しておきたいのは、「論語」は孔子の著作ではなく、孔子の弟子たちが孔子の言葉を集めて一冊の本に仕立てたのだということである。著者の貝塚氏は中国古代史の専攻であるからその道のエキスパートである。そのためかこれまでの一般的な解釈と異なる新説も紹介しており好奇心をそそられる。 もう一つ私のうろ覚えの一節に 「我れ欲せざるところ、これを人に加うることなかれ」 であったが、これに似たフレーズはあるものの言葉が違うし、用法・解釈においても違うものしか見当たらなかった。私はこのうろ覚えの一節のとおりそのままに受け取っていたが、本書では弟子の子貢がこの一節を孔子に語ったところ、実際にできるのかと子貢が孔子にたしなめられたというシチュエーションで出てくるのだ。私が思っている一節と同じものなのだろうか。ぜひ別本で真偽を確認しなければならなくなった。 入門書的にはこの程度でよいのかもしれないが、なんとなく物足りなかった。 「白村江」~私は「はくすきのえ」と記憶している。しかし最近はそのまま音読みして「はくそんこう」と読んだりするようだ。だから「百済」も「くだら」を「ひゃくさい」とやるらしい(ちなみに朝鮮語読みでは「ペクチェ」)。なんか調子が狂う。 「白村江の戦い」といえば、百済復興のために差し向けた倭国の水軍が、唐・新羅連合軍に大敗を喫したという7世紀に起こった大戦争という認識である。韓国ドラマを引き合いに出して恐縮だが、時はちょうどドラマ「善徳女王」に出てくる金春秋(キム・チュンチュ)(後の武列王)や金?信(キム・ユシン)将軍らが大活躍したあたりの時代である。 次にこれもドラマ連載中の「階伯(ケベク)」に出てくる百済の階伯将軍らが唐・新羅連合軍に敗れ、百済は滅亡する。そこで百済救済のために倭国が大軍を派遣するも、白村江で連合軍に大敗する。このとき圧倒的物量の差で負けたと言われているが、実は当時倭国は連合軍をしのぐほどの大軍を派遣していたというのだ。 敗因は幹部である百済の旧王族の間に内部不和が生じ方針が定まらなかったこと、結果全軍の意思統一ができていなかったことなどによるものだという。歴史にイフは禁物だそうだが、もしこのとき百済・倭国連合が勝っていたら、半島に百済が復活し倭国が半島に権益を確保して、今の我が国の地図は違う形になっていたのかもしれない。 また、百済に向け熟田津を出発する兵士を鼓舞するために額田王が、 「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな」 と歌ったと万葉集(巻第一)はいっているが、著者は斉明天皇の作歌とするのが妥当だとういう。斉明女帝はこの戦争のために移動していた時だから、それも一理あると思った。なぜ額田王か、この戦争の全権の象徴である斉明天皇の方がふさわしいと私も思うようになった。 このように、今まで一般常識のように思われていたことも、よく見れば歴史的事実は異なるかもしれないと気付かされる。
やっと近所の畑に出没する雉の撮影に成功した。
いまだに韓国歴史ドラマを見ている。正しくは朝鮮の時代劇とでもいうのだろう。その当時は「韓国」じゃないからね。でも韓国のテレビ局が制作したから韓国歴史ドラマでいいんじゃないかと思う。 朝鮮の時代劇を見ていると、両班(ヤンバン)という特権階級の人たちが出てくる。身分的にはその下に位置する常民や奴婢たちをこき使う。特に奴婢と呼ばれる人たちは人間扱いされず物と同じだ。売買の対象にさえなっている。 私は朝鮮の歴史ドラマを見ていて、これほどに民衆をいたぶる両班という「種族」がいつごろどのようにして発生したのか、当時どれほどの人口の両班がいたのか、そして現代においてはその両班たちはどうなったのか、そういう疑問を持ってしまった。それにこたえてくれたのがこの本であった。 「民衆エッセンス韓日辞典」によると「ヤンバン」の語義は ① [史](身分)両班。 ② [史](東西班) 東班(文官の班列)と西班(武官の班列)。 ③ 礼儀正しく善良な人。 ④ 婦人が第三者に対して自分の夫を指して言う語。 このうち最も概念を狭くとらえているのが②で、その次が①だそうだ。しかし、語義の配列順が示すように①が両班という言葉の最も重要な意味で使われるということだ。 時代が下ってくると、一般人も上昇志向が強くなり、両班的地位を獲得しようとする動きが強まる。そうして両班戸や両班人口も増加するが、奴婢身分の人々は19世紀中葉になっても全人口の3割を占めていた。しかしただの労働力として利用されていた奴婢たちも、小さいながらも小作農として独立していく。下層両班、常民、奴婢の身分を問わず多くが小農として次第に均質な存在になっていく。 近代になって社会全体の両班志向が加速化された。現代の韓国人で自分の属する一族の族譜が存在しないという人は希だそうだ。韓国人全部が両班になったらしい。
うちのまわりに雉が3羽いるらしいことが判明した。妻が買い物に行く途中や用事のたびにそれぞれ見かけるため、別々に3匹いるらしいというのだ。 定期的に診察に訪れる八戸赤十字病院の二階にある売店で見つけ、すかさず買い求めた本。タイトルに一発で惹きつけられた。 古来、日本と朝鮮は切っても切れないほどに強い密接な関係を保ち続けてきたそうだ。当時朝鮮半島に南部には伽耶諸国という鉄を産する小国家群が存在したという。しかし私にすれば、タイトルからは「日本と朝鮮は当然にして一つの国になるはずだった」というニュアンスが読み取れる。これは私には違和感があった。古代においてある程度の交流があったにせよ、 ① 日本は島国であり、朝鮮と国境を共有していない。 ② 民族が異なる。 ③ 言語が異なる。 ④ 日本は仏教を受け入れたが、儒教については朝鮮のような受容はしなかった。 ⑤ 日本も朝鮮も中国の政治制度を模倣したが、日本は宦官だけは受け入れなかった。 これだけの決定的な違いのある二国間で、一つの国になるという機運がどこかの時点で本当に発生していたのだろうかという疑問が、まず最初に頭を過ぎったのである。 隣国でありながらなぜ友好関係を築けなかったのか。両国が民族意識の形成期に対抗関係にあったことが、この二つの地域を分けることになったという。6・7世紀の朝鮮半島統一をめぐる混乱の中で、ある時は日本と戦い、ある時ははからずも日本に従った。日本と朝鮮半島の文化の違いは、地理的条件からではなく、古代の複雑な政局の中から生み出された。そして地理的に近い日本と朝鮮半島が一つの国としてまとまることは決してなかった。というのが著者の考え方のようだ。 しかし私は当時の政局よりも、まさに地理的条件や言語等の古代文化の違いが二つの国を一つにしなかった最大の原因のように思うのだが・・・。
|