智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。 兎角にこの世は住みにくい。住みにくさが高じると安いところに引き 越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき詩が生まれ 画ができる。
こんな草枕の冒頭が最近よく頭に浮かぶ。
人間、突き詰めて考えると偉い人になるか、気が狂うかである。 自分はどうみても後者である。 住みにくい世の中を少しでも、快く過ごすために音楽・映画・文学など の芸術がある。 それらに浸っている時、日常の矛盾・不条理からくるストレスから いくらか解放されるのである。
生きているだけで人間は大変なことであり十分である、というのが 五木寛之。一方、自分の美意識に殉じた三島由紀夫や立原正秋は 気に入らない人間を「こんな人間でもいきているのか!」とか [人間の弱さを認め、人間は弱いものだと諦めた人間」を最も嫌った。
思想家でも小説家でもない自分にはどちらが正しいのかわからない。
いま思うのは、自分の健康を守り、家族の無事を祈り、真っ当に職に ついているだけで十分であるという気持ちである。
「向上心がない奴は馬鹿だ」これは漱石のこころの一節だが、いったい 向上心とはなんだろうか?いつのまにか、資格を取得したり、専門家と しての技量を磨くことの代名詞になってしまった。
果たしてそれは、自分にとって有利なこと・社会的に認められること ではないだろうか。 本当は、「人間性」を磨くことが向上心なんだと思う。
「よい人間関係」こそが人間に幸せを感じさせるのであり、「よい人間 関係」は「人柄」が信頼されることである。これは、職業的能力や 身体的能力とは違ったもっと根本的能力である。
「人柄」を磨くことが「向上心」だとすれば、何に向かって努力すれば よいのだろう。
それは、「バランス主義」「身辺主義」とでも言おうか。 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉があるが、何事も白黒割り切れるものではなく、バランス・程度の問題である。 また、自分の影響の及ぼすことのできる範囲は時間的にも空間的にも限られ ており、その範囲にベストを尽くすべきである。
つまり、過去を悔やんだり、未来を夢見るよりも、反省はするが囚われず 、目標は持つが現在の自分をしっかり生きる。また、社会や世間を憂うより 、自分の健康や家族、友人を大切にする。実際、世の中の人間がそんな生き方をすれば、多くの問題は連鎖的に解決するように思える。
「職業に貴賎なし」「人と比べない」。これは正しい。ただ「働き方に貴賎 あり」「人の評価は気になるし、同僚には負けたくない」のも真実である。 つまり、理屈や理想では割り切れないのである。どうしても受け入れ難い 現実と直面するのが人生であり、こうなると冒頭の言葉に救いを求める しかないのだ。
人事評価・異動は他人が決めることであり、自分ではどうしようもない。 それを目的にすることは、ある意味むなしい結果を受け入れる結果を招く。
であれば、「バランス主義」「身辺主義」に徹し、生活のバランスをとり、 背丈に合った努力と生活をするなかで、不条理な世の中を受け止めていく しかないのではないか。心の平穏・体の健康こそ幸せの現象であり、それらを犠牲にすることは避けるべきだ。
「ここまでは許せる」「ここまではやり遂げる」というラインの設定こそ 日々の生活の判断の連続であり、総体的にまとまった人間は存在しない。 また、その判断のラインもほとんど「直感」であり、「直感」こそ その人の「感受性」「感性」である。「何を愉快かと思うかが、その人 の人間性を最もよく表す」というゲーテの言葉がある。
人間は、雑然としたそれでいてバランスをとる存在である。 少なくとも、今は自分は「直感」を信じてバランスをとっていくのが 私の人生の現状である。
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