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心遣いと我侭と。 - 2004年11月19日(金) ある人の日記を読んでいて 考えこんでしまった。 たとえば自分が自分の好きなようにふるまって もちろん その振る舞いは常識的にも 客観的にも 極めて問題のないことだとして だけれども 相手が自分を心配するあまり その行動を批判したり 規制したり 抑制しようとしたり 相手からすれば 相手に対する思いやりや 心遣いがないと言い 自分からすれば 別に悪いことをしているわけじゃなかろうに と 思い 自分が自分の生活やイベントを楽しむことが 何故批判されるのだと 半ば疑問に感じながらも 確かに配慮が足りなかったかもしれないと 植え付けられた反省をしてみたりする。 相手が嫌いなわけじゃ無い。 相手が必要で無いわけじゃない。 ここで自分は考える。 確かに配慮は足りなかったよ。だけど、なんだかなあ。 これってどちらが悪いんだろう。 だけど私が思うのは これはどちらも我侭でいて どちらも悪くはない と思う。 多分 そもそもの考え方が あまりに違い過ぎるんじゃないかと。 相手が楽しんでいることに 送りだしてあげられないのも それはそれで 身勝手であるし 相手の心配に 配慮できないのも ある意味身勝手だし。 自分の一つの心遣いに対して 相手の一つの配慮を求める人がいる。 それとは別に 自分の十の思いやりを 見返りなく与えられる人がいる。 そしてまた 相手の十の思いやりに対して 自分は何も返せない人も 相手の十の思いやりに対して 自分も十の思いやりを返そうとする人もいる。 多分 これは好きだとか嫌いだとかとは まったく別の次元のことだと思うのだけど。 相手を思い遣るばかりに 相手を傷つけたことがある。 よかれと思って厳しいことをいったことが 相手はそうは思わずに 不愉快に感じてしまった。 思い遣りも 度を過ぎれば 押し付けになる。 今思い出しても 間違ったことをした と反省している。 相手がそれで どんなに苦労しようが どんなに不幸になろうが 望んだことなのだから 本望なのだろう。 そう 思うようになった。 相手のテリトリーに侵入することは とても難しい。 それが どんなに立派な思いやりであろうと 相手の陣地の中では どんな形相に変わってしまうのか わからない。 結局は そのテリトリーを いい塩梅に シェアできる相手としか 理解しあえないと いうことなのかな。 ...
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